私、ウヨンタナ のパートナー、料理研究家/音楽プロデュースの山田亮が亡くなって今年、2022年の7月19日でちょうど20周忌になります。
これまで、私は亮さんについてあまり書かなかったのは、この20年間のあまり、私は亮さんが本当に亡くなったと言う事実を真正面から向き合うことができずにいました・・・。
亮さんとの出会いは、20世紀の90年代の初めに遡ります。
亮さんのことを少し話しますと、彼はとてもユニックな家庭に生まれて、彼の父方のお爺様は昔、つまり日露戦争(1905年)が終わった頃中国に渡り外交官になったそうです。このお爺様には5人の子どもがいて、3人の息子と二人の娘だといいます。そこでこのお爺様は、息子たちを全部お医者に育ち、娘たちをピアニストに育つと宣言したそうです。いまに考えれば、そんな都合よく行くはずがないでしょうと、思ってしまいますよね、しかし、このユニックなお爺様は全て思う通りにしたそうですす!
そうしたら、3人の息子が全部医学部に入れて、二人が立派なお医者さんになりましたが、途中で次男が事故に合い(またいつか書きます)お医者さんになれなかったのですが、亮さんの父親は3男で、戦後に日本に戻って慈恵医大の博士まで行って、のちに荻窪で山田医院を開業したいいます。
亮さんはそんな家庭の長男として生まれ、将来はお医者さんになるんだと、幼い亮さんを含めて、誰もそう思っていたといいます。
しかしその頃、ちょうど日本は高度経済成長期に差し当たり、アメリカ的なポップ文化が日本にどんどん入って来て、多感な少年はどんどん吸い込まれてゆき、音楽を好きになり、料理を好きになって行きます。
亮さんは高校生になったこと、自分はもうお医者さんにならない、絶対にミュージシャンになると、バンドやり、また高校卒業すると同時にアメリカにジャズ留学 しに出かけます。
日本に戻って、プロのミュージシャンとして10年程活動をしていたのちに、また料理の仕事をやりたくなり、そこで彼と仲間で「キュール」と言う料理グループを、コロナで閉じるまでおよそ40年以上続きました。
亮さんとの結婚生活はわずか10年間、彼は5歳の息子と私を残して短くて、濃厚に生きた47年の生涯を閉じました。
この20年間の間、亮さんのことを一日も忘れたことなく、あの才能溢れる、明るい、思いやりのある精神はいつまでも、私の中では生き続けることであろう!
またつづき・・・