昭和女子大学/紅葉同窓会会報掲載文書
「広げよう光の葉」
「昭和女子大学の初めてのモンゴル人留学生」
私は、恐らく昭和女子大学が建学後初のモンゴル人留学生だったと思います。1988年、まだ中途半ばな日本語を操りながらも光栄に服飾デザイン学科に入学することができ、憧れのアパレルについて勉強することができました。ほんとうのことを言うと、当時国を出る時、アメリカに渡って映画の勉強できたらと密かに思っていました。1980代末、中国はまだ改革開放の国策が実施されて間もなく、国を出られるものも珍しく、それもほぼアメリカを目指していました、私の一番仲のいい同僚夫婦もアメリカに渡っていました。しかし、私が初めての外国、初めて日本、成田空港について足を踏み入れる日本の土地、その瞬間、何かホッとするような、懐かしいよう感じがして、季節はちょうど10月末で、東京の空は見渡し限り青くて、空気も透き通って、全てが自分の体にしっくりくるフィット感がしました。東京についたばかりの時、水道橋の日中友好会館の宿舎に泊まっていて、そこで友人に初めてマクドナルに連れっていかれ、食事を終えて店を出るとき、店員さんに「ありがとうございました!」と言われて、初めてそんな接客を受ける私がびっくりして、慌ててお辞儀をしながらも「ありがとうございました!」と言いました。それをみた友人が私を笑った場面はいまだはっきり覚えています。それからもう35年も経ちました!その時から、自分の中での「夢」を作り直しました。もしこんな日本に残れることができたら絶対ファッションの勉強しようと。なぜなら日本に来る前から日本の映画やドラマで主人公が着ていた服に見惚れて、どうしてあんな素敵な服が作れるのか、また日本にきてから、東京の街を行き来する女性たちの服を見て、おしゃれな方が多くてとても憧れ的でした。当時の中国ではまだファッションデザイナーという職業もなく、洋服だと言うとほぼ人民服一色の時代だったですからね。日本に来て最初の半年はやはり、理想と現実のギャップに苦しみ、孤独と経済難も味わいました。しかし幸運がある日から突然訪れて!ある日、内モンゴル歌舞団の著名な馬頭琴奏家のチ・ボラグ先生が東京芸術大学で演奏する時、同じ内モンゴル出身の私がそこで民謡を歌いました。その後不思議な出会いがどんどん広がり、最終的に幸運にも人見楠郎先生に出会いことができました。そして、1988年4月に、日本にきて半年あまりで昭和女子大学に入学でき、また大好きなアパレルについて習い、しかも奨学金をいただきながら、なんて幸運なことだったのでしょう!
左:故人見楠郎理事長先生、ウヨンタナ、セントマイケルズ大学学長夫人、右:プロボスト学長先生 1993年3月、謝恩会にて